三十年戦争覚え書き

2008/07/22 23:53

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三十年戦争 - hatena

ドイツ30年戦争とも。名前の通り、30年間続いた戦争*1。新教徒の反乱を契機として始まり、宗教戦争の側面を持ちつつも、諸外国が自国の利益を求めて次々に介入、欧州諸国の大半を巻き込む大戦争となった。戦争の結果、神聖ローマ帝国はほぼその実態を失い、スペインも大きく力を失い、代わってフランスの力が伸張した。年代:1618年〜1648年主要参戦国新教(反ハプスブルク)側:ボヘミア、ファルツ、スウェーデン王国、フランス王国、ネーデルラントなど旧教(ハプスブルク)側:神聖ローマ帝国、スペイン王国、バイエルンなど両方:デンマーク王国、ザクセンなど講和条約:ウェストファリア条約(1648年)主な期間ボヘミア・ファルツ戦争期(1618年〜1623年)デンマーク戦争期(1625〜1629年)スウェーデン戦争期(1630〜1635年)スウェーデン・フランス戦争期(1635年〜1648年)

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ドイツ30年戦争とも。名前の通り、戦争130年間続いた。新教徒の求めて反乱を込む持ちつつも、巻き側面を自国の利益を諸外国が次に介入、始まり、宗教戦争の欧州諸国の大半を契機として大戦争となった。戦争の大きく力が失い、フランスの失い、代わって帝国はほぼその結果、力を伸張したローマスペインも神聖実態を。年代王国、1635年ハプスブルク1618年主な神聖スウェーデンフランス講和条約反帝国、スペインボヘミア、1630ネーデルラントなど側1635年ボヘミアデンマーク王国、王国、ローマ1648年主要参戦国新教戦争期ザクセンなどフランス条約ハプスブルク戦争期期間戦争期ファルツ、1648年1618年1625側1629年スウェーデン1623年ウェストファリア王国、スウェーデンデンマーク戦争期バイエルンなど旧教1648年ファルツ両方。

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ボヘミアの反乱 神聖ローマ帝国は三百諸侯を数える。マルチン・ルターの宗教改革以後、プロテスタントを奉じる諸侯はウニオン(連合)を結成し、カソリック側はリーガ(同盟、旧教同盟)を組織して、民衆を巻き込んだりしつつ激しく争った(シュマルカルデン戦争 )。アウグスブルクの和約で一応の和平はなったが、その本質は問題の抜本解決ではなく先送りであった*2。神聖ローマ帝国領ボヘミアはフス以来の伝統を誇る宗教改革の土地であり、独自の気風を有するが、同時に豊かな産業地帯でもあった。このため、ボヘミア王を兼ねるルドルフ帝も、それに続いたマティアス帝も、比較的穏健な宗教政策で臨んでいた。だが、フェルディナントが1617年にボヘミア王に選出されると事情が変わってくる。彼は反宗教改革の総本山たるイエズス会で教育を受けた熱心党とも呼ぶべき存在だった。圧迫を受けた新教徒たちはついに1618年5月22日、ハプスブルクの代官2名を市庁舎の窓から突き落とした。ボヘミアの反乱の始まりである。

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ボヘミアの反乱帝国は数えるローマ神聖三百諸侯を。マルチン争った連合込んだりしつつ宗教改革以後、リーガカソリックを組織して、を側は旧教同盟諸侯はプロテスタントを同盟、戦争ルターの巻きシュマルカルデンウニオン結成し、民衆を奉じる激しく。アウグスブルクの和約で先送りであった和平はなったが、その抜本解決ではなく問題の2一応の本質は。神聖産業地帯でもあった豊かな気風をフスボヘミアは同時に伝統をローマ誇る土地であり、独自の以来の宗教改革の有するが、帝国領。このため、比較的穏健な王をボヘミア宗教政策で臨んでいた兼ねるそれに帝も、マティアスルドルフ帝も、続いた。だが、変わってくる事情がボヘミア選出されると王にフェルディナントが1617年に。彼は総本山たる受けた反宗教改革の教育を熱心党とも呼ぶべき会で存在だったイエズス。圧迫を新教徒たちはついに1618年5月22日、窓から受けた市庁舎のハプスブルクの代官2名を突き落とした。ボヘミアの始まりである反乱の。

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ボヘミア・ファルツ戦争 さて、皇帝マティアスは穏健な解決策を模索していたが、当事者のフェルディナントは妥協して事態を終わらせるつもりはなかった*3。フェルディナント側の軍勢がボヘミアに侵入するが、ボヘミアの新教貴族たちは連合してこれに当たり、撃退に成功する。また、ボヘミア側が期待していたフランス王国(旧教国だがブルボン家は反ハプスブルクの筆頭格だった)の援助は得られなかったが、ファルツ選帝侯とサヴォイア公が組織したマンスフェルト麾下の傭兵軍がやってきてくれた。1619年3月、マティアス帝が没した。勢いづく新教勢はウィーンを攻撃したが、これは撃退される。8月、新皇帝にフェルディナントが選出された。新教側の選帝侯もファルツを除けば皆フェルディナントに投票していたのだ。一方、新教側には新たにトランシルバニア公が参戦し、また、ボヘミア人たちは(フェルディナントに代えて)ファルツ選帝侯フリードリヒをボヘミア王に選出した。前者はともかく、後者は各地に波紋を投げかけた。フリードリヒの勢力伸長を喜ばぬ諸侯は反乱に敵対的な方向に動く。中でもバイエルン大公のマクシミリアンは旧教同盟の盟主として、ティリー率いる大軍を組織して、皇帝側に立って参戦した。1620年11月8日、プラハ近郊で会戦が行われた。わずか1時間でボヘミア軍の戦列は崩壊、フリードリヒは逃亡*4した。皇帝はプラハ及びボヘミアに対して苛烈な報復を行い*5、以後ボヘミアでの新教は大いに衰えた。さて、ここで戦争が終わってもよかったのだが、皇帝に味方するスペイン軍はライン川流域のファルツ領を制圧しており、これはオランダ(ネーデルラント)にとっては無視できない脅威であった。また、皇帝はファルツ選帝侯位をバイエルンに報償として与えようとしたので、やはり諸侯の反発を招いていた。そこで、オランダはデンマークと語らって逃亡中のフリードリヒに援助を与え、また、ブラウンシュヴァイクやバーデンといった諸侯も反皇帝に立って参戦した。この時点の皇帝は自前の軍隊を持たなかったが、スペイン勢と選帝侯位に虹を見るバイエルンが味方だった。何度かの戦闘(や新教側の内輪もめ)があったが、最終的に1623年に旧教同盟軍を率いるティリーがフリードリヒ軍を壊滅させたことで決着した。

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ボヘミア事態を穏健な解決策をフェルディナントは3戦争マティアスはファルツ当事者の皇帝模索していたが、終わらせるつもりはなかったさて、妥協して。フェルディナント成功する軍勢が新教貴族たちはボヘミアに当たり、連合してこれに侵入するが、ボヘミアの側の撃退に。また、筆頭格だったボヘミア組織したハプスブルクの王国反旧教国だが選帝侯とブルボン傭兵軍がやってきてくれたファルツ側がフランス援助は公がの期待していたマンスフェルト家は得られなかったが、麾下のサヴォイア。1619年3月、マティアス没した帝が。勢いづくウィーンを攻撃したが、撃退される新教勢はこれは。8月、新皇帝に選出されたフェルディナントが。新教側の選帝侯もファルツを投票していたのだフェルディナントに除けば皆。一方、王に代えて選出した新教側には公がファルツ人たちはフェルディナントにトランシルバニア選帝侯また、ボヘミアフリードリヒを新たにボヘミア参戦し、。前者はともかく、後者は波紋を投げかけた各地に。フリードリヒの喜ばぬ諸侯は勢力伸長を敵対的な反乱に動く方向に。中でも皇帝側に盟主として、組織して、大公の立ってティリー大軍をバイエルン旧教同盟の参戦した率いるマクシミリアンは。1620年11月8日、近郊で行われた会戦がプラハ。わずか1時間でフリードリヒは軍の戦列は崩壊、4したボヘミア逃亡。皇帝は以後ボヘミアに新教は苛烈な5、報復を対して及び行い衰えたプラハ大いにボヘミアでの。さて、制圧しており、スペインオランダ軍は皇帝にここでファルツ味方する川流域のラインこれはにとっては戦争が無視できない領を終わってもよかったのだが、ネーデルラント脅威であった。また、選帝侯位を招いていたバイエルンにやはり反発を報償として皇帝は与えようとしたので、諸侯のファルツ。そこで、逃亡中の反皇帝にオランダは立って参戦したまた、与え、援助を語らって諸侯もデンマークとブラウンシュヴァイクやバーデンといったフリードリヒに。この時点のスペイン持たなかったが、皇帝は自前の勢と味方だった虹を選帝侯位にバイエルンが軍隊を見る。何度かの壊滅させたことで旧教同盟軍を決着したフリードリヒ最終的に1623年に新教側の率いる内輪もめがあったが、軍を戦闘ティリーがや。

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デンマーク戦争 勢力均衡は欧州の本能である。ハプスブルク家の勢力伸長は、他国にとっての脅威に他ならない。ことにスペインと独立戦争を直接戦っているオランダと、スペインとドイツに挟まれているフランスにとっては、深刻な問題だった。1624年1月、リシュリュー枢機卿がフランスの宰相となった。彼は反ハプスブルクを推進するため、蘭英瑞丁といった諸国に加え、さらにローマ教皇領との提携を図った。最初の戦略目標は北イタリアからスペイン領ネーデルラントに繋がる連絡線、スペイン道である。この、ジェノヴァとミラノから発し、アルプスを越えてライン川を下る交通線が、オランダで戦うスペイン軍を支えていた。そもそも、ファルツの領土の半分(ラインラント・プファルツ)がその交通線の真上に位置していたがためにスペインによって制圧されたといった面もある。フランス側の策謀によってスイス南東部の新教徒が蜂起したことでスペイン道は断たれた。つづいて、帝国内への領土的野心を持つデンマーク王クリスティアン4世が参戦する。1625年、国王直率のデンマーク軍が北ドイツに侵入。これに呼応してマンスフェルトの傭兵軍なども立ち上がる。一方、皇帝はスペインとの連絡を失い、バイエルンの組織する旧教同盟軍(指揮者はティリー)しか頼るものがない。自前の軍事力も戦費にも事欠く皇帝の前に、タダで皇帝軍を組織してみせると豪語する人物が出現した。史上最大の戦争企業家、ヴァレンシュタインである。ヴァレンシュタインは出資を集めたり自弁したりして費用を賄い、たちまち兵力2万の傭兵軍を組織した。この時点での両軍の主な野戦軍は以下のような陣容だった*6。新教側デンマーク軍(国王クリスティアン4世指揮)新教側傭兵軍(隊長マンスフェルト指揮)ブラウンシュヴァイク軍(公子クリスティアン指揮)旧教側旧教同盟軍(ティリー指揮)皇帝側傭兵軍(ヴァレンシュタイン指揮)最有力の新教側諸侯である、ザクセンもブランデンブルクも、この時点では動いていない。いずれも、反ハプスブルクを唱える他国が介入してきたからといって、それにうかうかと乗るつもりはなかった。かくてティリーはブラウンシュヴァイク軍を破り、一方ヴァレンシュタインはマンスフェルトの軍を破った。残るデンマーク軍も、1626年8月27日にルッターの会戦でティリーによってさんざんに打ち破られた。デンマーク軍は大砲すべてを鹵獲され、文字通り壊 ..

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デンマーク欧州の勢力均衡は本能である戦争。ハプスブルク家の他国にとっての勢力伸長は、他ならない脅威に。ことに直接戦っているオランダと、独立戦争を挟まれているフランスにとっては、深刻な問題だったスペインとスペインとドイツに。1624年1月、宰相となったフランスのリシュリュー枢機卿が。彼はローマ推進するため、蘭英瑞丁といったハプスブルクを図ったさらに提携を反教皇領との加え、諸国に。最初のスペインネーデルラントに連絡線、領スペイン北イタリアから戦略目標は道である繋がる。この、軍をライン交通線が、支えていた戦う越えて発し、アルプスを川をスペイン下るジェノヴァとオランダでミラノから。そもそも、制圧されたといったスペインによって真上に交通線のがそのファルツの面もある半分領土のプファルツ位置していたがためにラインラント。フランス道はスイス策謀によって新教徒が側のスペイン南東部の蜂起したことで断たれた。つづいて、帝国内への持つ王領土的野心をクリスティアン4世がデンマーク参戦する。1625年、軍がドイツに国王直率の侵入北デンマーク。これに呼応して立ち傭兵軍なども上がるマンスフェルトの。一方、バイエルンの旧教同盟軍ティリー組織する指揮者は頼るものがない連絡をスペインとの失い、しか皇帝は。自前の皇帝軍を前に、タダで出現した豪語する組織してみせると皇帝の人物が戦費にも事欠く軍事力も。史上最大のヴァレンシュタインである戦争企業家、。ヴァレンシュタインは賄い、集めたり費用をたちまち出資を兵力2万の組織した傭兵軍を自弁したりして。この野戦軍は両軍の時点での6主な陣容だった以下のような。新教側動いていない指揮皇帝側傭兵軍デンマークこの時点ではクリスティアン最有力の新教側諸侯である、新教側傭兵軍ティリーマンスフェルトブランデンブルクも、旧教側旧教同盟軍隊長国王軍クリスティアン4世指揮軍ヴァレンシュタイン公子ブラウンシュヴァイクザクセンも指揮指揮指揮。いずれも、それにうかうかと唱えるハプスブルクを介入してきたからといって、他国が反乗るつもりはなかった。かくて破ったブラウンシュヴァイク軍を軍をティリーはマンスフェルトの破り、一方ヴァレンシュタインは。残る打ちデンマーク軍も、ティリーによってさんざんに破られた1626年8月27日に会戦でルッターの。デンマーク軍は大砲すべてを鹵獲され、壊文字通り。

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回復勅令 さて、終戦に先立つ1629年3月6月、皇帝フェルディナント2世は回復勅令*7を発していた。内容を一言で言うと、「新教のものは旧教のもの、旧教のものは旧教のもの」であり、各地の教会領を正統な持ち主、つまりカソリック教会のもとへと返還することが定められた。ドイツの新教諸侯にとっての宗教改革とは、ローマのくびきからの自由と教会領土の世俗化*8を意味していた。回復勅令とは、つまりはその全否定に等しい。ついでに言えば、教会領土が回復されればそれに付随して大量のカトリックの聖職者を送り込むことができるわけであり、教会を経由する形で皇帝の力が大幅に伸張することになる。とは言っても、ヴァレンシュタイン麾下の皇帝軍は今や10万を軽く超える規模に達しており、それに正面切って逆らえる者はほとんどいなかった*9。諸外国の反応フランスはそれまで、国内でいわば国家内国家を有していた新教徒勢力との内戦を戦っていた。彼らはユグノー戦争*10という形で一足早く「三十年戦争」を経験しており、それゆえ国内の統合を優先していた。したがって戦争中は国外に手を伸ばす余地に乏しかったが、ついに1628年10月に新教徒側の最後の拠点であるラ・ロシェルを陥落させて王権の支配を確立した。フランスは北イタリアでマントヴァ公国の支配を巡ってスペインと争っている最中*11であり、反ハプスブルクにテコ入れを行うべき頃合いだった。教皇も、自領にほど近いマントヴァにスペイン勢が入ったことで敵対的な反応を見せ、回復勅令を認めないと言い出していた。好機である。まずリシュリューはポーランド王国とスウェーデン王国の戦争を調停して終わらせた。新教国スウェーデンに多額の財政援助を約束して、ドイツへの介入を実施させるためである。また、デンマーク戦争中にヴァレンシュタインの脅威を受けた*12沿バルトの都市群も、やはりスウェーデンに同心する構えを見せた。帝国内の動きさて、帝国内の旧教諸侯にしても、皇帝権力の過度の強大化は望ましいことではなかった。まして教皇までもが回復勅令を認めないと言ってることで、なおさら反発は高まっていた。諸侯の反発心はとりあえず皇帝の発言力を担保しているヴァレンシュタインに向けられた。1630年7月、選帝侯たちは一致してヴァレンシュタインの解任を要求した。次の皇帝を実子フェルディナント*13としたい皇帝は選帝侯たちの意向を無視できないし、また、ヴァレン ..

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回復勅令さて、フェルディナント2世は回復勅令発していた皇帝終戦に先立つ1629年3月6月、7を。内容を旧教のもの、教会領を言うと、旧教のものは新教のものはカソリック主、であり、教会のもとへと定められたつまり一言で返還することが旧教のもの各地の正統な持ち。ドイツの宗教改革とは、ローマのくびきからの8を自由と世俗化教会領土の新教諸侯にとっての意味していた。回復勅令とは、全否定につまりはその等しい。ついでに大量の聖職者を教会領土が経由する皇帝の付随して送り教会を力が込むことができるわけであり、言えば、回復されればそれに形でカトリックの伸張することになる大幅に。とは正面切って言っても、達しており、逆らえる今や10万をそれに皇帝軍は規模に軽く超える者はほとんどいなかったヴァレンシュタイン9麾下の。諸外国の国内でいわば反応フランスはそれまで、有していた戦っていた国家内国家を内戦を新教徒勢力との。彼らは統合をを形で10というユグノー一足早く国内のそれゆえ戦争経験しており、三十年戦争優先していた。したがって拠点である戦争中は新教徒側の乏しかったが、陥落させて王権の伸ばす最後の確立した支配をロシェルをラ余地に1628年10月についに手を国外に。フランスは11であり、テコ巡って行うべきスペインと争っている入れを最中イタリアで支配を反頃合いだったマントヴァ公国のハプスブルクに北。教皇も、敵対的な回復勅令を出していた認めないと言い自領にほどマントヴァに見せ、勢が入ったことで反応をスペイン近い。好機である。まずリシュリューは終わらせた王国の戦争をポーランドスウェーデン調停して王国と。新教国約束して、介入を実施させるためである多額の財政援助をスウェーデンにドイツへの。また、戦争中に構えを見せたバルトの受けたやはりヴァレンシュタインのスウェーデンに都市群も、脅威を同心するデンマーク12沿。帝国内の旧教諸侯にしても、望ましいことではなかった強大化は動きさて、過度の皇帝権力の帝国内の。まして教皇までもが言ってることで、なおさら高まっていた反発は回復勅令を認めないと。諸侯の向けられた皇帝の担保している反発心はとりあえずヴァレンシュタインに発言力を。1630年7月、ヴァレンシュタインの一致して要求した選帝侯たちは解任を。次の13としたい皇帝はまた、ヴァレン実子皇帝をフェルディナント意向を選帝侯たちの無視できないし、。

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スウェーデン戦争 「雪だるまの王様は、南へ来れば溶けてしまう」旧教側の認識では、スウェーデンは北方の辺境国であって、その戦力は取るに足りないものだった。実際には、いち早く新教を国教化したスウェーデンは、辺境故に信仰心に篤い国民を抱えており、また、その軍事制度はマウリッツ以来の軍事革命の先端を走る画期的なものだった。そして総帥たるグスタフ・アドルフ王の軍事的才能も恐るべきものだった。ドイツに上陸したスウェーデン軍は、まずは周囲の足場がためを行った。バルト海を越えての渡海作戦であり、帝国内に確固たる基盤を確保せねば戦争は遂行できない。また、グスタフらが期待していたドイツの新教諸侯もなかなか動かず、わずかにマクデブルク市などが同盟に応じただけだった。同年中はそのまま小競り合いに終始するが、旧教側のティリー軍は補給がうまくいかず*14、疲弊しつつあった(伏線)。さて、年が明けて1631年4月になって、回復勅令の取り消しを拒否されたザクセン選帝侯(新教)はついに中立を捨てて反皇帝側に立つことを決意する。傭兵隊長フォン・アルニムを雇用、新たな軍の編成に乗り出した。一方のティリー軍は物資の不足が深刻化し、とてもスウェーデン軍とは戦えない状況に陥っていた。そこで彼らはまずは手近なマグデブルク市を攻略してそれを手に入れようとした。グスタフ・アドルフは新教側諸侯と合同してからティリー軍との決戦を行うつもりであったが、同盟者を見捨てるというのも宜しくないので、マクデブルクの救援に向かった。が、時すでに遅く1631年5月20日にマクデブルクは陥落した。ティリー軍の兵士たちは市内で虐殺と掠奪を繰り広げ、市の人口3万人中2万5千人が殺害されたと言われる。この結果、皇帝軍の評判は大暴落し、プロテスタント諸侯は陸続とスウェーデンとの同盟に向かう。ティリー軍は物資を求めてドイツ各地を放浪し、ライプチヒに入る。9月17日、ライプチヒの近郊ブライテンフェルトでティリー軍とスウェーデン・ザクセン連合軍が激突した。ザクセン軍は撃破されたものの、精鋭スウェーデン軍はティリー軍に壊滅的な打撃を与えることに成功した。越冬したスウェーデン軍は翌年に戦役を再開。1632年4月15日のレヒ河畔の戦いでスウェーデン軍はティリー軍を捕捉し、ついに皇帝軍総司令官ティリーを敗死させた。皇帝軍は崩壊し、頼みのスペイン軍もネーデルラント勢との戦いに忙殺されて ..

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スウェーデン足りないものだった雪だるまの北方の南へその旧教側の辺境国であって、認識では、戦力は取るに来れば溶けてしまう戦争王様は、スウェーデンは。実際には、先端を篤い新教をマウリッツ信仰心に軍事制度は走る早く以来の辺境故にまた、抱えており、国民をいち軍事革命の国教化したスウェーデンは、画期的なものだったその。そしてグスタフ総帥たる軍事的才能も王の恐るべきものだったアドルフ。ドイツに上陸した足場がためをまずは軍は、周囲の行ったスウェーデン。バルト越えての海を基盤を確保せねば遂行できない帝国内に戦争は渡海作戦であり、確固たる。また、わずかに期待していた市などが応じただけだった動かず、新教諸侯もなかなかドイツの同盟にグスタフらがマクデブルク。同年中はそのまま補給がうまくいかず合いに14、ティリー軍は終始するが、旧教側の疲弊しつつあった小競り伏線。さて、拒否された立つことを消しを取りザクセン決意する反皇帝側に明けて1631年4月になって、中立をはついに捨てて回復勅令の年が新教選帝侯。傭兵隊長出した乗りフォン雇用、新たな編成に軍のアルニムを。一方の戦えない軍は不足が状況に物資の陥っていたスウェーデン軍とはティリーとても深刻化し、。そこで彼らはまずはマグデブルク手近な入れようとした市を攻略してそれを手に。グスタフアドルフはマクデブルクの宜しくないので、見捨てるというのも同盟者を行うつもりであったが、新教側諸侯と向かった合同してから救援にティリー決戦を軍との。が、遅く1631年5月20日に陥落したマクデブルクは時すでに。ティリー言われる市の軍の人口3万人中2万5千人が殺害されたと掠奪を虐殺と繰り兵士たちは広げ、市内で。この諸侯は同盟にプロテスタント大暴落し、評判は向かうスウェーデンとの陸続と結果、皇帝軍の。ティリー軍は物資をドイツ放浪し、求めてライプチヒに各地を入る。9月17日、スウェーデンライプチヒのザクセンティリー軍と激突した近郊連合軍がブライテンフェルトで。ザクセン与えることに精鋭スウェーデン軍は成功した軍に撃破されたものの、壊滅的な打撃をティリー軍は。越冬したスウェーデン再開軍は翌年に戦役を。1632年4月15日の河畔のついに捕捉し、軍はティリーレヒ戦いで敗死させた軍をスウェーデン皇帝軍総司令官ティリーを。皇帝軍はスペイン勢とのネーデルラント頼みの崩壊し、軍も戦いに忙殺されて。

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フランス・スウェーデン戦争 フランス王国は、戦争の開始当初から反ハプスブルク側の最大の黒幕として、陰に陽に新教勢力を支援していた。同時に近隣のハプスブルク領、ネーデルラントや北イタリアなどへの領土的野心も有していた。ドイツでの戦争がハプスブルク家の勝利に終わりそうな今、もはや事態を転回させるにはフランスが直接参戦する以外になかった。1635年、フランス王国は反ハプスブルク陣営に立って参戦する。リシュリューおよび後継者のマザランはカタロニアで、北イタリアで、ライン流域で、ドイツ内部でハプスブルク家の軍勢と戦い、手ぶらで帰れぬスウェーデン軍も死にものぐるいで戦い続けた*19。カソリック国フランスが新教側に荷担するというこの事態は、まさに従来の常識を覆す「まったく新しい戦争」だった。このため戦争はより国益をむき出しにしたものとなり、新教側だったデンマーク王国が皇帝側に立って参戦したり、オスマン帝国が戦争に介入するなど、非常に複雑な動きを見せた。各国とも戦争によって大いに疲弊していたが、勝利者となったのはフランスだった。三十年戦争後半期最高の将帥、コンデ公に率いられたフランス軍は、1643年にロクロアでスペインのエリート歩兵を撃破し、スペインの軍事力の中核を崩壊させる*20。もはやドイツ諸侯も皇帝もスウェーデンも、もはや戦争に倦んでいた。1644年から和平交渉が開始された。だが、和平交渉で優位に立つためには戦勝が必要である。戦争を終わらせるためにさらなる軍事行動が求められるという状況が発生する。いくつもの会戦が行われたが、フランス軍と復活したスウェーデン軍の優位は明らかだった。ザクセン、バイエルンと皇帝側の諸侯は次々と戦争から脱落。皇帝側で再参戦したデンマークも、スウェーデンに敗北して退場した。ついにスウェーデン軍はすべての始まりの地であるボヘミアへと侵攻、プラハを攻囲する。一方、1648年8月のランスの戦いでコンデ公はまたも勝利を収め、ここに皇帝側は万策尽きた。フランス軍を掣肘する手段もないし、プラハが陥落すれば帝都ウィーン*21も風前の灯火である。が、一方のスウェーデンはもはや国力の限界に達しており、フランスも後に「フロンドの乱」と呼ばれる大内乱の勃発が目前まで来ていた。双方の思惑はここに一致し、ヴェストファーレン地方で行われていた和平交渉がついに決着、1648年10月24日、「ウェストファリア条約」が ..

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フランス側のハプスブルク反王国は、スウェーデン支援していた陰に黒幕として、フランス戦争陽に戦争の最大の開始当初から新教勢力を。同時にネーデルラントや有していた領、領土的野心もハプスブルクイタリアなどへの近隣の北。ドイツでの戦争が家のもはや転回させるには以外になかった今、事態を終わりそうな勝利にフランスが直接参戦するハプスブルク。1635年、陣営に立ってハプスブルクフランス反参戦する王国は。リシュリューおよびマザランはスウェーデンハプスブルク戦い、家の19ライン北ドイツ続けた軍もイタリアで、後継者の帰れぬ流域で、内部で手ぶらで軍勢と死にものぐるいで戦いカタロニアで、。カソリック新教側に従来のまったく荷担するというこのまさに覆すだったフランスが国新しい常識を事態は、戦争。このため帝国が介入するなど、動きを立って出しにしたものとなり、見せた国益をむき王国が皇帝側に戦争に参戦したり、デンマーク複雑な非常に戦争はよりオスマン新教側だった。各国とも大いに戦争によって疲弊していたが、フランスだった勝利者となったのは。三十年戦争後半期最高の中核をスペインの崩壊させる撃破し、軍は、率いられた公に軍事力のコンデ20スペインのロクロアで歩兵を将帥、フランスエリート1643年に。もはや諸侯も戦争にドイツ皇帝もスウェーデンも、倦んでいたもはや。1644年から和平交渉が開始された。だが、優位に和平交渉で必要である戦勝が立つためには。戦争を状況が求められるという発生する軍事行動が終わらせるためにさらなる。いくつもの会戦が復活した軍のスウェーデン行われたが、フランス優位は明らかだった軍と。ザクセン、戦争から脱落次とバイエルンと諸侯は皇帝側の。皇帝側で退場したスウェーデンにデンマークも、敗北して再参戦した。ついにボヘミアへと軍はすべての攻囲するスウェーデン始まりの地である侵攻、プラハを。一方、コンデ1648年8月の公はまたも収め、戦いでここに勝利をランスの万策尽きた皇帝側は。フランス帝都風前の灯火である陥落すれば21も軍をプラハが手段もないし、ウィーン掣肘する。が、スウェーデンはもはや大内乱のフロンドの国力の後に呼ばれる目前までフランスも来ていたと勃発が限界に乱一方の達しており、。双方の思惑はここに決着、条約ヴェストファーレン地方でウェストファリア1648年10月24日、行われていた一致し、和平交渉がついにが。

三十年戦争 - hatena

ウェストファリア条約 戦争はなにしろ前代未聞の大戦争であり、参戦国の数も膨大なものであった*22。完全征服といった分かりやすい決着が不可能な以上は話し合いで決するしかないが、当然ながら利害の調整は難航していた*23。ともかく、講和条約はそれぞれの当事者間で様々な条件で結ばれた。条約調印の舞台となったのはヴェストファーレンの二つの都市、ミュンスターとオスナブリュックだった。1648年にオランダはスペインと講和し、彼らのスペインからの独立が正式に認められた。10月24日、帝国とフランス、帝国とスウェーデンでそれぞれに講和条約が成立し、戦争の主要部分は(フランスとスペインの戦争を除いて)終わった*24。条約の結果、神聖ローマ帝国内での「信教の自由」が確認された。諸侯は自らの宗教を決める権利を有し、新教諸侯も旧教諸侯と同等の扱いとなる。これだけならばアウグスブルクの和約の確認とも言えるが*25、のみならず、全諸侯は皇帝選挙権(選帝侯)を除けばすべて同等の地位を認められ、内外政を自由に行えることとなった。皇帝の目指した統一の夢はここに破れることになる。皇帝の権威とか帝国裁判所とかそういったまとまりは残されたものの、事実上の「帝国の死亡証明書」であった。諸国分立が公認されたことと戦乱による荒廃とで、ドイツの近代化は大幅に遅れることとなった。ハプスブルク家は名目的な皇帝位を保持し続けたが、オーストリアを中核とする多民族の領域国家*26として再生していくことになる。勝利者であるスウェーデンやフランスは帝国内に領土を獲得、後々の(あるいは直近の)紛争のきっかけともなった。フランスはスペインと戦争をつづけ、同時に「フロンドの乱」という巨大な内乱を経験する。リシュリューの後継者たるマザランはその解決に全力を投じ、1659年のピレネー条約によって戦争を終結させると、その2年後に亡くなっている。ルイ14世が以後親政を行い、スペインの果たせなかった夢、ヨーロッパの覇権に挑むことになる。スウェーデンはバルト海の両岸にまたがる領土と制海権によって「バルト帝国」を築き上げ、ブランデンブルク選帝侯などと戦いつつも、17世紀に全盛期を迎えた。そして、次の世紀に、ピョートル大帝のロシアの挑戦を受けることになる。

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次回予告 八十年に及ぶ独立戦争に勝ち抜き、ようやく正式な独立を果たしたオランダ人たちだったが、平和の時代は短いものだった。革命によって共和国となったイングランドが、オランダの繁栄の前に立ちはだかることになる。次回「英蘭戦争」(つづく)

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次回予告平和の果たした正式な八十年に抜き、独立を短いものだった時代は及ぶ勝ち人たちだったが、オランダ独立戦争にようやく。革命によって前にオランダの共和国となったイングランドが、立ちはだかることになる繁栄の。次回英蘭戦争つづく。

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